この手から零れ落ちていってしまう。
この腕から離れていってしまう。
行かないで。
置いていかないで。
私を一人にしないで。
どうしたらいい?
引き止めるためにこの手を伸ばせばいい?
そうしたら、あなたはここに残ってくれる?
心の中に燻る焦りと苛立ち。
どうしてあなたはいつも私をないがしろにするの。
どうしてあなたはわたしを守ってくれないの。
なぜ私を後宮になど迎え入れたの。
私は一人ぼっち。
あなたがいなければ、ここにいる価値もない。
第一公妃を押しのけてまで地位を安泰にしたいわけじゃない。
あなたにも仕事があるって分かっているわ。
でもね。私だって寂しいのよ。
ここよりもあの部屋の方がよかったなんて言わないけれど、
ここにはわたしと話してくれる人も一人もいない。
みんな私を蔑みの目で見るの。
やめさせて、お願い。
私は好きであんな生活を送ってきたんじゃないわ。
親に恵まれずに売られる子供が、あそこにはたくさんいた。
みんな幸せな世界なんてありはしない。
誰かが幸せをむさぼっている時、どこかに幸せをむさぼりとられている人がいるのよ。
見返してやりたいと思ったわけじゃない。
ただ、あなたの心に応えたかっただけ。
今、この地位を確かなものにしたいと足掻くのは、生まれてくる子供のため。
後ろ盾を持たないこの子が、後宮で潰されてしまわないように。
これほど近くで眺められるようになった神の一族でさえ、私を救うことはできないでしょう。
私を救えるのはあなただけ。
それなのに、優柔不断なあなたは、抱けない女になど興味はないのだと私を捨てた。
あなたがいなくなったら、私は誰も頼る人がいない。
ほら、厨の裏口に今日も来ている。
私の父母を名乗る人たち。
私が第二公妃になったと知った途端名乗りを上げてきた人たち。
捨てたくせに。
お金をせびり取ろうと、今日も卑しい笑みを浮かべている。
どうしてこう、私の人生はうまくいかないんだろう。
いなければよかったのに、あんな人たち。
そうよ、いなければいい。
殺してしまえば、いい。
こっそりと、誰にも気づかれないように。
――――
さあ、これでもう、私に恥を塗る人たちもいなくなった。
なのに今度はまたあなたが出てくるのね。
私が実の両親を殺した大罪人だと?
いいえ、違うわ。あの人たちは勝手に死んでしまったのよ。
私の知らないところで。
ああ、なんてうるさい人でしょう。
やっていないと言ったら、やっていないの。
何とかだまらせることはできないかしら。
いいえ、もうお腹が重くなってきたもの。
早く生まれて、私の御子。
私たちが生きやすくなるように。
あなたが生まれれば、きっとあの人も私の元に帰ってくるでしょう。
早く、早く。
――――
本当にここにい続けることが私たちの幸せなのかしら。
あの人は帰ってきたけれど、このこまで第一公妃に命を狙われるようになった。
もう少しで物心がつくようになれば、あることないこと吹き込まれるかもしれない。
本当に、私はここに居ていいの?
本当は分かってるんじゃない?
ここは私の居場所ではないと。
あの人は帰ってきたけど、私に逢いにくるんじゃない。
この子に会うためにだけ私の元に通ってきてるの。
分かってる。
誰も私を必要としてくれてない。
いいえ、必要としてくれてるのはこの子だけ。
その子も、いずれ王になるための教育と称して乳離れすれば私の手から奪われてしまう。
第一公妃の嫉妬からこの子を守ることもかなわなくなる。
それならばいっそ。
そう、いっそ。
もうこんなところ、出て行ってしまえばいい。
この子が私を必要としてくれるなら、私はどこでも生きていける。
この子が生きている限り、私はどんなことをしてでも生きていける。
胸の中に燻り続けた苛立ちとももうお別れ。
そうよ、自由になるのよ。
自由に。
――――
この子を抱えている限り、第一公妃は私を付狙うというの?
なんて執念深いことでしょう。
この子を殺すことよりも、独り占めできるようになった王との間に子をなすことの方が先でしょうに。
「ママ」
愛らしい笑顔。
なのに、たまにとても憎らしくなる。
きっとそんな時は怖い顔をしているのね。
あなたはすぐに怯えた顔になる。
あなたは私の心の鏡。
私がどんな心持ちになっているか、その顔で教えてくれる。
愛しい子。
でも、邪魔な子。
もう逃げるのは疲れたの。
あなたも、こんな母親と一緒にいるよりも、いっそ。
そう、いっそ。
私は子のない夫婦に息子を預け、第一公妃の放った追っ手の前に立った。
一人目から剣を奪い、舞いながら二人目、三人目を手にかけていく。
さあ、一体もうこの手で何人殺したことだろう。
もう戻れない。
こんな手であの子を抱きしめてはいけない。
鬼になりましょう。
わたしは、子を捨てて自分の自由を選んだのだから。
だから、誰か私をあの子から引き離して。
私をこのうわべだけの幸せな世界から切り離して。
「では、闇獄界にいらっしゃいますか」
疲れた私の前に現れた女は、禍々しい美しさを纏って私に手を差し伸べた。
やつれた自分の姿が彼女の紫の瞳に映っているのを見つけたとき、私は彼女の手をとった。
私から離れたくないと泣き叫び、追いすがる子を振り払って、私は闇の世界に足を踏み入れた。
なのに、何故か私の苛立ちは消えなかった。
耳にあの子の泣き叫ぶ声がこだまし続けている。
ああ、イライラする。
迎えに行かなければと、焦りが心のうちにわきあがってくる。
もう行くことはできないのに。
私は、捨てたのに。
早く、行かなければと。
「あなたにぴったりの罰があるのです」
罰。
その言葉はあまりに甘美で、私は彼女の勧めるがままに黒い炎の中に身を投げた。
以来、胸の中の苛立ちと焦りは前にも増して燻り続け、高ぶった神経を蹂躙し続けている。
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