「帰るわよ」
聖という名の少女が兄に抱きかかえられて、安らかな寝顔で帰っていくのを見送ってしばしのち、目の前に現れた長身細身の女性の影に気づいてヴェルパは顔をあげた。
「はい」
思うともなしに口許には微苦笑が浮かぶ。
「なによ」
迎えに来た女性は、腕を組み不機嫌に尋ねる。
「いいえ。ただ――」
「ただ?」
ヴェルパは笑った。
「こんな年でもお迎えの人が来てくれると嬉しいものなんですね」
女性はしばしじっとヴェルパを見つめた後、長い髪に風をはらませて踵を返した。
「行くわよ」
「はい、おばあさま」
おばあさまと呼ばれるには若すぎる女性が、むっとした表情を隠しもせずに振り返った。
「名前で呼びなさいと言ってるでしょう?」
ヴェルパは肩を竦めた。
「ちょっと、肉親が迎えに来たシチュエーションを体験してみたかったんです」
「何バカなこといってるの。ほんとに、旅先がこっちの世界だなんて、思いもしなかったわよ。それで? こそこそ私に内緒で出かけて、目的は達せられたの?」
「いいえ。南北を間違えてきてしまいまして」
「そうね。私はてっきり火炎の国にいったものだと思っていたもの」
「恋しいわけじゃないんですよ? ただ、一度だけでいいから…会ってみたかっただけなんです」
女性はじっとヴェルパの曖昧な微笑を見つめていたが、そっと目を閉じると再び踵を返した。
「あ、待ってください、リセ様ーっ。って、急に止まらないでください、リセ様」
「このままこっちで生きようとは思わなかったの?」
急に立ち止まったリセにぶつかりかけたヴェルパは、何気ない風を装って顔をあげ、リセを見上げた。
「あなたならできるでしょう。なぜ、母親の国へ行かなかったの?」
「リセ様…」
「南北、わざと間違ったわね? それくらいお見通しなのよ」
少し唇をかんだ後、ヴェルパは小さく呟いた。
「怖くて……」
お前など知らないと言われたら、二度と立ち直れない気がしていた。だって、生みの母は自分が生きていることさえ知らないだろうから。
でも、会いたい。一目、自分を産んだ人をみてみたい。言葉など交わせなくてもいい。ただ、どんな人なのか知ることができれば満足できると思っていた。
結局はそんな勇気も振り絞れず、正反対の国に来てお茶を濁してしまったけれど。
「今からでも私に背を向けていってもいいのよ?」
リセの言葉に、ヴェルパは泣きそうな笑顔で首を振った。
「僕は、リセ様と一緒に帰ります」
「あなたにとってはこっちの方がよほど安心して暮らせる場所よ」
「心配してくれてありがとうございます。でも僕の帰るところは、やっぱりまだ貴女のところみたいです」
リセはしばしヴェルパを見つめた後、ほっと誰にも聞こえないような小さなため息をついた。
「子どもね」
「まだ十三歳ですから」
ヴェルパの答えにもう一度ため息をつき、リセは歩きだした。
その背をヴェルパが追いかける。
「あの……」
「なに? 手なんか繋いであげないわよ」
「そうじゃなくて。僕のこと、探してくれてありがとうございました」
「いつもあるものがなくなったら、誰だって気になるじゃない」
「嬉しかったです。お迎え」
「いつも来るとは思わないことね」
「そうだ、リセ様。もし今度はリセ様が迷子になったら、僕が探してあげますね」
無邪気な微笑に、リセはしばし言葉を失った。だが、何事もなかったかのようにヴェルパの背を押した。
「馬鹿なこと言ってないで、ほら、入りなさい」
リセの押し出した次元の歪みの中に、ヴェルパはためらいなく飛び込んでいった。
人工の光が満ちた暗闇の世界へ。
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