闇獄界なはずなのに白い世界で窓辺で白い壁で、白く輪郭のぼやけた世界。白い窓枠から除く世界もまた白く塗り込められていて遠近感が得られない。その窓辺で揺り椅子に掛けた一人の女性。彼女は椅子を斜めに窓際に向けているが、その目は窓の外を見ているようですでに何も見てはいない。うつむき加減にやや斜めに落とされた意志の宿らぬ目は空っぽの心を雄弁に物語っていた。
どちらかというと赤みの強いワインレッドの袖と裾に膨らみを持たせたドレスも今は色褪せ、うつむけた頬にかかる蜜柑色の波打つ髪は梳く者がいなくなった今、奔放に広がり、絡まり合い、艶を失っていた。
少年は一歩女性に近づく。
女性は少年の存在に気付かない。
それでも少年は起こさないように警戒しながら、一歩一歩女性に歩み寄っていく。
ついにそのか細く短い腕が女性に届くところまで来たとき、ようやく少年は歩みを止めた。
女性の視界に自分は入っているはずだ。
しかし、女性は顔を上げようともしなければ、声も上げようとしない。
ただぼんやり窓の外を眺め続けている。
いや、もはや彼女の心はここにないのかもしれない。
<嫉妬>の炎に食い尽くされるものもなく、残さずゾーゲストの消滅とともに己の心も葬ってしまったのかもしれない。
空っぽだ。
彼女は空っぽだ。
まさに器だけ。
しかし、身体が生きているということは、<嫉妬>の炎の糧となっている心もまだ残っているということだ。
彼女はまだ生きている。
祈るような気持ちで少年は女性に手を伸ばした。
冷たい頬に触れる。
手触りが陶器のようであれば冷たさもまた、陶器のようだった。
ビスクドールのようだ。
美しいまま陶器に象られたいとしい女の抜け殻。
「悔しいな。君の心を最終的に持っていったのが俺じゃなくてあいつだなんて」
冷たい頬をなぞる。指先の体温は奪われて冷たくかじかんでいく。
「それでも君がここに残っているのは、今は誰のため? もうあいつは戻ってこないよ。それは知ってるから心をなくしてしまっているんだよね? 君が待っているのが俺じゃないことはわかってるんだ。俺は消滅したことになっているから。君はようやくそれを理解したんだろう? ゾーゲストの消滅とともに、俺も本当に消滅してしまっていたんだと、もう二度と君の前には戻ってこないと、納得させてしまったんだろう? --バカだな。待たなきゃよかったのに。待つから傷つくんだ。期待して、期待が外れて、また今日こそはと期待して。アケルナ、一体君は何度それを繰り返した? 何度期待した? 何度傷ついた? 死んでいないかもしれない、と、どうして思えた? いや、なぁ、アケルナ、どうして最後まで信じなかった? 俺がまだ生きていた可能性を」
その目で見たわけでもない。
その腕の中で消えたわけでもない。
なぁ、君は結局自分の信じたいものを信じたんだろう?
真実よりも信じたいものを信じようとしたんだろう?
「ああ、どうして君に対してまで怒りがこみあげてきてしまうんだろう」
少年は俯く女性の頭をそっと胸に抱き寄せた。
「聞こえるだろ? 生きてんだよ、俺。生きてたんだよ。消えてなんかいなかったんだ。消滅なんかしなかった。ただ、月宮殿で得体のしれないものと一緒にとらわれてただけなんだ。そいつの封印が解けたから、ようやく、俺も抜け出して転生して肉体を得ることができた。アケルナ。もう待たなくていいんだよ。目を覚ませ、アケルナ。いるんだろ、そこに。戻ってこい。お前が今本当に待ちたい奴を待つために。君の、最愛の、いや、最も憎み嫉み、恨んだ、君の心の全てを注がれた者を待つために。言いたいことがあるんだろう? たくさん積み重ねてきた思いが。そして君はもう業を下したがっている。君は永いことその荷を背負いすぎた。疲れ果てて当たり前だ。アケルナ、いや、海。彼女が来るよ。君の待つ彼女が。俺もゾーゲストも君の待つ間には帰ってこられなかったけれど、彼女は間に合いそうだ。目を覚ませ、アケルナ! 君はまだ、人を愛することができる」
あー、グルシェース維斗だったような気がする。あの子供の正体、維斗だった気がする。
小学生じゃないけど。
統仲王の儀として転生していながら、その実、統仲王に力を封じられるために器とされていた維斗本人。
維斗自身は統仲王の意思が目覚めて維斗の体を使いはじめた時点で自分のイメージする姿が止まっている。
それはつまり、自分の目で鏡を見ることができなくなった歳。
それ以降は統仲王の目を通して「工藤維斗」の生活を視てはいるけど、己のものとしてではなく、テレビで生中継を見ているような感じ。鏡に映る高校生の工藤維斗の姿もすでに自分の姿ではないと理解しているため、投影される姿は統仲王が目覚めた12歳で止まっている。
ゾーゲストの死に際に初めて見ている画面に爪を立てた。
傷つき心が壊れたアケルナの姿を見て、己の体なのに思うようにできない苛立ち、無様さ、むなしさが怒りとなってこみ上げ、己のグルシェースという人格を思い出す。
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