サヨリが亡くなった後、見舞いに来た聖に対して。
鉱兄様は開け放った出窓の縁に腰掛け、肩膝を抱えて睨むようにオアシスのはるか彼方を見つめていた。
「鉱兄様……」
サヨリさんという、おそらくこの世でただ一人の運命の人を失って、老いゆく指標を失ったかのようだった。その姿は、息子である錬と兄弟としか思えないほどに若い。
いつもはつらつと冗談ばかり言っていた鉱兄様。サヨリさんと結婚してからは、周りも驚くほど落ち着いてしまったけど、それでもいつも笑顔だけは昔のまま明るく、力強く、優しかった。
人となど結婚しなければよかったと思っているだろうか?
一人の人を愛しすぎなきゃよかったと思っているだろうか?
「後悔、してる?」
何と言葉をかけたらよいのか分からないながらも口から出てしまったのは、そんな後ろ向きな言葉。
時が戻せたらやり直せるのに。
何か嫌なことがあれば、誰だってそう思う。
誰だって、私の元を訪れる。
時を戻してくれ、って。
静かに顔を上げた鉱兄様は、闇の深淵を抱え込んだような目で私を睨みつけた。
「後悔? 何にたいして? ここに戻ってくるのが遅れたことに対して? サヨリを守りきれなかったことに対して? ヒハルを守りきれなかったことに対して?」
若返った声は長年聞きなれてきた声のはずなのに、たった二十年ばかり聞かなかっただけでやけに違和感があった。これほど沈んだ声を聞いたことがなかったからかもしれない。
人であるサヨリさんの寿命は短い。人として生まれたからには人として死にたい、と永遠の命を拒んだ彼女と添い遂げることは、永遠の命を持つ鉱兄様にとっては刹那の戯れにしか過ぎないと、結婚当初はよく言われていた。それでも、年齢を留めることをやめて、サヨリさんと共に時を歩みはじめた鉱兄様の時間は、私たちから見てもとても刹那とは思えないほど毎日が充実していて、とても楽しそうだった。それでも、いつかは愛する人を看取る日が来る。それさえも覚悟して、鉱兄様はサヨリさんと一緒になったのだ。
だけど、それは安らかに逝く姿だったはずだ。
闇獄兵に傷だらけにされ、赤い血にまみれた姿ではなかったはずだ。
大好きな鉱兄様。
できることなら、望む時まで時間を戻してあげたい。
鉱兄様だって思っているに違いない。時を戻してくれ、って。
「聖。馬鹿なこと考えるなよ。俺様はお前に時を戻してほしいなんて思っちゃいない」
私の思考を見抜いたように、鉱兄様は荒んだ目をしたままではあったけれど、困ったように頭をかいた。
「そんなことしたってどうにもならない。それよりも……」
そんなことしたってどうにもならない。
その通りだ。私は結局時を戻すことすら出来なかった。もし戻せたとしても、今思えば同じ道を辿っていたかもしれない。未来を知らないまま過去を変えようとしても、何も変えることはできないのだから。
「それよりも?」
「いや、馬鹿は俺様のほうか。俺様は大馬鹿者だ。なのに、誰もそう言ってくれない。誰も、俺を非難してくれない。俺が悪かったのに。周方の前線を守ることばかりに気をとられて肝心の自分の城を守れなかった。いくらでも気づけたはずなのに、俺様は全部そのサインを見逃してしまった。馬鹿だろう? 大馬鹿者だろう? なのに、どうして……あの錬だって母親殺されたのに何も言わないんだ。自分だってあれだけ怪我を負ったのに、馬鹿親父ってさえ言ってくれないんだ……妙に気ぃつかって笑うんだよ、あいつ。親に気使う子供がいるか? こんな情けない父親、いくらでも面と向かって詰ってくれればいいのに……その方がどれだけ楽か……」
自分で自分を非難するには限界がある。その限界に鉱兄様はぶつかっているのだろう。それ以上はもう、自分を許すことでしか生きていくことは出来ないのに、まだ足りないと自分を責めている。
「もう、いいよ。もういいでしょう? 鉱兄様。これ以上責めないで。もう、十分だよ」
肩を抱きしめたわたしをやんわり引き離して、鉱兄様はじっと私を覗き込んだ。
「十分? サヨリがそう言ったか? もういいって、サヨリが言ったのか? ヒハルが言ったのか?!」
「……鉱兄様……」
「聖、だめだ。だめなんだよ。俺様たちのこの力は、自分を幸せにするためのもんじゃない。人を幸せにするための力だ。世界を支えるための力なんだ。間違えちゃいけない。間違えちゃ……」
言い聞かせながら、泣きそうになった鉱兄様は私の肩に額を預けた。
「泣いていいよ? 誰にも言わないから」
「お前は強いな、聖。俺様が時の精霊の契約者だったら、絶対自分のためにその力を使っていた。またサヨリと出会えるのかと、未来を覗き見に行ってしまうところだった」
「未、来?」
思っても見なかった言葉に、私は目を見開く。
「サヨリはずっと言ってた。自分はいずれ死ぬから、何があってもけして過去を見るなって。だから、俺様は過去を見ることも変えることも許されない。もし、どこかを変えてしまったら、今までの俺様たちの記憶はどうなる? 大切な思い出はどうなる? 俺様は一つでも欠けるなんて我慢できない。どの時間も犠牲には出来ない。大切にしてきた時間を差し出さなきゃならないくらいなら、俺様はサヨリに逢える未来を見たい」
ふっと、思わず私は口元を緩めた。
鉱兄様だと思った。
どこまでも現在に誠実な人。おそらく、兄弟の中で一番曲がったことが嫌いで、真っ直ぐな心を持ったまま大人になった人。一番、人に近い人。
「大好きだよ、鉱兄様」
私はそっと鉱兄様の頭を撫でた。
「きっと、きっとだけどね、鉱兄様は……」
私は未来も知っている。有極神の描いた未来だけれど、変えるつもりではいるけれど、でも、今のところその未来へと向かっていることは間違いない。その未来で、鉱兄様は……鉱兄様の魂は、またサヨリさんの魂と出会う。
「言うなよ。知りたいけれど、未来は言うな。もし、サヨリの魂とまた出会える日があったとしても、俺様はもうその人をサヨリと呼ぶことはできない。気軽に抱きしめることもできない。俺様はもう二度と、サヨリには会えないんだ。それくらい分かってるから、勘違いさせるくらいなら何も言ってくれるな」
言いかけた口を噤ませるように、鉱兄様は言い募った。
出会えるときは、もう鉱兄様はその名では呼ばれなくなっている。同じ人間として人界に生まれているんだよ。
「言うな、聖。大丈夫だから。未来を聞いて、今を変えてしまうことのほうが俺様は怖いんだ。もしかしたら遠くない将来、また会えるかもしれないチャンスをみすみす潰すことになったら、俺様はどんなに後悔してもしたりなくなっちまう。それくらいなら、そっとしておいてくれ……」
鉱兄様はどこかにふれてしまいそうな精神を、必死で立て直そうとしていた。
だけど、鉱兄様にあの真夏の太陽のような笑顔が戻ることは、もう二度となかった。
PR