幼い頃、愛優妃が言ったことがある。
「まだ分からないと思うけど、分かってからじゃ遅いから話しておきましょうね」
なんとなく、聞きたくないと、及び腰になったのを覚えている。
「もしこの先妹が出来ても、交わったりしては駄目よ。もちろん、海とも炎とも」
愛優妃はいつもの他愛ないことを話すような顔つきで、しかし、南海の水を集めたような青い瞳は真剣に俺を見つめながら、まだ何も知らなかった俺にそう言った。
交わる、という言葉の意味を問い返そうとして、幼かった俺は自然に赤くなって口ごもった。
あまり軽々しく口にしていい言葉ではないと直感的に悟ったからだ。
「・・・うん」
「約束よ?」
にっこりと愛優妃は微笑む。
我が母親ながら幼い俺はその愛優妃に憧憬すら抱いていて、まっすぐに伸ばした人差し指があてがわれたふくよかな唇をまっすぐ見ることも出来ずに無言で頷いた。
きっと、この気持ちの行きつく先がその禁忌とも思える言葉が示すことなのだろう。
「だけど母上」
「なぁに、龍」
「僕たちは永遠に生き続けるのでしょう?」
「・・・そうよ」
「それじゃあ、僕たちは一体誰と一生を共に歩めばいいの?」
愛優妃は珍しく目を瞠っていた。
「ごめんなさい。なんでもな・・・」
「共に歩くのではないのよ」
いつもよりちょっと高い声で愛優妃は俺の言葉をこれまた珍しいことに遮っていた。
「連れて歩けばいいの」
それは、愛優妃の口から出たものであるとは俄かには信じがたい言葉だった。
共に歩むのではなく、連れて歩く。
その言葉は、主従を連想させる。
「影ならば、けしてあなたたちを裏切らないから」
そのあと、俺はなんと答えて愛優妃の元を辞したのか覚えていない。
ただ、それからずっと後になってわかったことがある。
影でも俺たちを裏切る。
サザ。お前とははじめから信頼しあえる立場になかった。
綺瑪。貴女とは、共に歩めると信じていたんだ。永遠に。
そして、なぜあの時愛優妃があんなに直接的な言葉で俺の心を前もって戒めたのかも。
「龍兄、今度聖刻の国で音楽祭をやるのよ。来て・・・くれるわよ、ね?」
俺がずっと面倒を見てきた末妹。まだ幼かったときは、連れて歩いているようなものだった。
だけど今は――
「すまないが、羅流伽の情勢が思わしくないんだ。出席は出来ない」
青と黒の瞳が期待を裏切られ、しかし予想通りであったと軽く伏せられる。
「でも麗兄さまは来てくれるって・・・!」
「それはお前の体調を考慮してのことだろう? その分、私は麗の分まで北を守らねばならないんだ」
一体、何を守るために?
「でも、一日くらい・・・!!」
「くどい」
背を向けても、この背の後ろで聖が呆然と立ちすくんでいるのが分かった。泣いてはいない。あいつは、いつからか全く泣かなくなった。どんなに俺が避け続けても、ひどい言葉をぶつけても、聖は泣かない。
ただ、それは涙を見せまいとこらえているだけなのだということくらい、俺にも分かっていた。
俺の背が駄目なことも、一番よく知っている。
初めて聖を傷つけたのは、思い返せばおそらく、綺瑪の墓の前で祈っていたときだろう。必死にしがみついていたあの体温は、幼児のものとは思えないほど冷たかった。
精神的に聖は俺に依存しているのだ。だから、共に歩く対象ではない。連れて歩く妹でしかない。
「愛優妃、約束は守っていますよ」
だけど、何のために愛優妃はあんなことを言ったのだろう。
博愛と平等を謳う愛優妃が、他人を貶めるようなことをわざわざ幼い俺に言い含めた理由。あれは、今思えば何かに怯えているようでもあった。だから、もし俺の推測が正しいなら、それは倫理的な理由などではなく、もっと愛優妃と統仲王、二人の沽券にかかわることでしかないはずだ。
もしそうだったとしたら俺は――
「そう。約束は守っています。今は・・・ね」
ようやく見つけたのだ。
共に歩める存在を。
聖は俺に依存していると言ったが、俺も相当聖に依存している。この状態が長く続けば、二人ともお互いをつぶしあって腐り果ててしまうかもしれない。
それでも一緒にいたいのだ。本当は。
手放したくなどないのだ。子供のときみたいに四六時中手元においておきたい。側に、いたいと思うのだ。
共に永遠を過ごしたいと思うのだ。
「聖」
もうどれくらい笑っていないだろうか。
聖も、俺も。
もう、そろそろやめにしようか。
嵐が来る。戦乱という種を蒔きに。
もし、その戦乱を二人とも無事にかいくぐることが出来たなら、やめにしよう。
永遠の命を持つ俺たちだ。死ぬことはない。百パーセント、俺たちは生き残る。
賭けは好きじゃないが、勝率が百パーセントならやらない手はない。
あと少し。
時が満ちたら、俺は愛優妃との約束を反故にしよう。
聖と互いの望みを叶えあうために。
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